或る程度の評価をされたらこのような体裁の画集を刊行するという習慣を改めて頂きたい。見栄を張っても意味は無く、何のstatementにもmonumentならない。
例えば、小磯さんの最晩年の、ミミズが這うような素描が日本橋のデパートにおいて驚くような価格がついているのを知っても、何とも思わない人は、この問題の深刻さを知らないのだろう。 出版当時は、単なる存命作家であり、小磯良平「室内のバレリーナ」(1967)からの盗用に対する不満が幾ばくか蔓延していたのだった。 誤解のないように記しておくと、私も一応、事前にこの画集が刊行されることをご本人から通知して頂いた身であり、野田さんを批判したいという意志はない。 以下は、自著「手仕事の限界」の本文である。 これからを生きる人は、老舗画廊の一角を占める欺瞞的な書物と、どのように異なるのかを、理解する必要がある。 ブグローは、パラレッドによる色彩表現の転換を知る画家だ。光源の発達は、色彩の認識とその表現を変えたが、それに伴う生活様式の変容に関して、当時の画家は、多くを述べていない。 近い表現を探れば、グリューネバルトの作品群を挙げることが可能だが、その後の画家との連続性は乏しいと指摘できる。ルーベンスの「キリストの復活」は、例外的に、類似性を認めることができるが、ルーベンスの他の作品との隔絶は、ルーベンス派の展望を補強しないことを暗に含んでいる。他方で、スポンジボブにも通じるグリューネバルトのその創造性を軽視してはいけない。 産業革命期の早期の事故死の絵がある。その家族の生活は、保障したと聞いている。 その絵と緊密な関係を有する絵が、一枚存在する。リヒターの「死者」だ。 科学革命を前提する産業革命の解釈は、方便を内在する。他方では、産業革命によって、高い専門性を有する職人の血脈が断たれたという意見が可能だ。 人知の限界を認めるのか、人力の限界を認めるのかという話だ。 野田弘志の問題は、活版印刷機の運用の問題とも連続する。機械の構造は物体の形状を超える。活版印刷機は、部品の組み替えを強力に許容する。活版印刷機の運用は、アッベ数を予言する出来事だった。活版印刷機は、火薬、羅針盤と並び、ルネサンス期の3大発明だと言われている。活版印刷機は、写本との並行関係を念頭に置いて理解する必要がある。写本の許容は、各自の遂行が貫徹することを保証しない。需要とは独立の座礁が噴出すると、更新を要求する。 手仕事の偶有性には、本質的には、意味が無い。その手仕事の中核を支える意味があるのかを、問い確かめられる場合には、その手仕事自体が、問い確かめられているのである。 |